川崎フロンターレ時代に、
3年連続得点王
に輝くなど、Jリーグや日本代表で多大な功績を残した、大久保嘉人選手。
2020年からはJ2東京ヴェルディでプレーすることが決まりました。
これまでに国見高校卒業後、スペイン・ドイツを含め、国内外8チームを渡り歩いていますよね。
当然、評価はその都度変わり、年俸・年収にも直結しているはずです。
では、大久保嘉人選手が、これまでどのチームに移籍し、年俸にどんな変化が生じていたのでしょうか。
本記事では、大久保嘉人選手の移籍遍歴、年俸推移、得点王・日本代表選手においての評価を調査し、まとめていきます。
大久保嘉人のクラブ移籍遍歴
現在、Jリーグ通算ゴール数1位の記録を持ち、生粋のストライカーとして活躍している大久保嘉人選手。
J1通算185ゴール(J2も合わせると203ゴール)は、これまで日本サッカー界を支えてきた、レジェンド
- 三浦知良(横浜FC)
- 中山雅史(アスルクラロ沼津)
はもちろんのこと、2019年に、古巣の『ジェフ市原・千葉』に復帰した佐藤寿人さんよりも、20ゴール以上も差をつけた、偉大なる数字です。
メモ
ただし、J2も合わせると、佐藤寿人選手が216ゴールとなるため、2位になります。
日本代表でも、
- 南アフリカ・ワールドカップ(2010年)
- ブラジル・ワールドカップ(2014年)
に出場。
ゴールこそ決めていないもの、献身的プレーでチームの勝利に度々貢献していましたよね。
そんな大久保嘉人選手ですが、実は多くのクラブチームを渡り歩いています。
では改めて、大久保嘉人さんの移籍遍歴を振り返ってみましょう。
セレッソ大阪時代(2001年~2004年、2006年)
現在、ジュビロ磐田でプレーする大久保嘉人選手の根幹というと、やはりセレッソ大阪と想像する人は多いです。
森島寛晃さん(現・セレッソ大阪代表取締役社長)のような、偉大な選手とも肩を並べ、チームの顔として活躍していた大久保嘉人選手。
J2ながらも加入2年目には、得点ランキング2位に輝く功績も挙げています。
また、加入3年目には背番号10を背負い、名実共にJリーグを代表とするストライカーとして成長していたわけです。
その後、いろんなチームを渡り歩くこととなりますが、国見高校時代も含め、セレッソで過ごした4年がなければ、今の大久保嘉人選手は無かったはず…
そのように言い切っても過言ではありません。
ちなみに、セレッソ時代の大久保嘉人選手の成績は、
2001年、リーグ戦(J1):20試合出場、2ゴール、カップ戦:1試合出場、1ゴール
2002年、リーグ戦(J2):29試合出場、18ゴール、
2003年、リーグ戦(J1):24試合出場、16ゴール、カップ戦:3試合出場、ノーゴール
2004年、リーグ戦(J1):22試合出場、15ゴール、カップ戦:2試合出場、ノーゴール
2006年、リーグ戦(J1):21試合出場、6ゴール
以上が、大久保嘉人選手の、セレッソ大阪時代に残した4年間の成績です。
実質、彼がリーグ戦全試合に出場していたわけではありませんが、怪我で苦しんだ初年度を除き、コンスタントに結果を残しています。
この頃から、大久保嘉人選手には、日本を代表とするエースストライカーとしての基質が備わっていたことが伺えますね。
なお、2006年には、海外から復帰しますが、残念ながら結果が振るわず、J2降格しています。
RCDマヨルカ(スペイン)時代(2005年~2006年)
大久保嘉人選手は、セレッソ大阪での活躍も認められ、2004年に開催されたアテネオリンピックサッカー日本代表に選出されます。
そして、その時の結果が世界に注目され、スペインのサッカーリーグ『リーガ・エスパニョーラ』に所属する、RCDマヨルカへ期限付き移籍が決定。
期限付き移籍した当初は、スペインリーグのデビュー戦で怪我をしたことも影響し、控えに甘んじる不遇の時代を過ごします。
しかし、マヨルカが1部リーグ降格危機を迎え、大久保嘉人選手を先発起用した途端、結果に恵まれ、奇跡の1部残留を演出。
その功績が認められ、移籍期間延長をチームから打診され、2005-06シーズンも在籍。
しかし、シーズン途中でグレゴリオ・マンサーノ監督が就任し、構想から外れることもあり、出場機会に恵まれず、移籍を決意。
日本(Jリーグ)への復帰
先程、触れたとおり、2006年、セレッソ大阪に復帰しますがJ2降格という不遇の年を迎えることとなりました。
まぁ、大久保嘉人選手であっても、常に順風満帆とはいかないということですね。
ヴィッセル神戸時代(2007年~2008年、2009年~2012年)
セレッソ大阪に復帰するもJ2に降格することとなってしまった大久保嘉人選手に、急に降って湧いた話が、ヴィッセル神戸からのオファー。
この話に乗った大久保嘉人選手は移籍を決断。
神戸では、かつて永島昭浩さんが背負い、以降エースナンバーとして称され続けている背番号『13』を背負い、エースストライカーとして招かれます。
しかし、チームの中心的存在だった三浦淳宏さんの怪我も伴い、左ウイングバックで出場するケースもしばしば…
この頃から、献身的プレーを身に着け始めた大久保嘉人選手。
ゴール数は激減していきますが、格段とプレーの幅が広がり、後の得点王に大きく繋がっていきます。
冬の時代だった神戸での5年間
ただ、神戸時代は、大久保嘉人選手にとって冬の時代といっても良いのかもしれません。
審判との相性は悪く、誤審でイエローカードを貰うなんてこともありました。
なかなか前線でボールが回らず、前線でのプレーが出来ないことも…
自ら自陣に戻り、ボールを貰おうとしたり、どこかイラつきを抑えられない部分もあったようですよ。
ヴォルフスブルグ時代(2009年)
2008年、J1のシーズン終了後、フェリックス・マガト監督の強い希望もあって、ドイツ1部『ヴォルフスブルグ』に移籍した大久保嘉人選手。
しかし、2度目の海外挑戦は、それこそ厳しい状況を突きつけられ、出場機会に恵まれず、マガト監督の退任も合わさり半年で神戸に復帰。
ドイツの厳しい当たりに負けないフィジカルを手に入れたことは、貴重な経験ではありましたが、半年で結果を出せなかったのは痛恨の極みですよね。
ただ、元々慰留もありましたが、本人の希望を了承し、渋々移籍を認めていた神戸サイドにとっては、嬉しい誤算だったかもしれません。
大久保嘉人選手の神戸復帰翌年には、チームのキャプテンを務め、背番号も10に変更…
確実に神戸の中心選手として活躍していきます。
ただし、チーム事情がなかなか好転しなかったことや、川崎フロンターレからの熱烈オファーもあり、2013年に移籍してしまうのです。
川崎フロンターレ時代(2013年~2016年、2018年)
セレッソ大阪時代に始まり、
- マヨルカ(スペイン)
- ヴォルフスブルグ(ドイツ)
- ヴィッセル神戸
と、チームを渡り歩き、経験を積んできた大久保嘉人選手。
ついに、本当の意味で開花する時代がやってきました。
それこそが、3年連続得点を獲得した川崎フロンターレでの時間でした。
神戸から川崎に移籍した初年度から、見違えるようにゴールを量産する大久保嘉人選手。
川崎はチーム事情も明るく、常に優勝争いを転じてきたチームで、
- 中村憲剛
- 大島僚太
を中心に、中盤がまとまり、大久保嘉人選手がボールを貰いに戻ることが少なく済んだのも大きなポイント。
その上で、神戸で培ったハードワーク・献身的守備も活かし、相手DFをするりと交わしてゴールを決める今のスタイルが形成。
川崎の掲げるポゼッションサッカーと見事にハマり、3年連続得点王に輝けたのです。
タイトルと縁が遠い大久保嘉人のサッカー人生
しかし、なぜか、あと一歩のところでJリーグ制覇という夢を達成することが出来ません。
2017年に心機一転しFC東京へ移籍。
その移籍した年に、まさか川崎が優勝するなんて、本人ですら想像もできなかったことでしょう。
ある意味で皮肉な展開ではありましたね。
FC東京時代(2017年)
2年ぶりのオファーを受ける形で、2017年にFC東京に完全移籍した大久保嘉人選手でしたが、いろんな意味で最悪な結末に陥ります。
まず、この年のチーム事情はとにかく最悪…
FC東京は、2016年に9位に甘んじ、巻き返しを誓ったはずなのに、
- 永井謙佑
- 林彰洋
- ピーター・ウタカ
など、期限付きも含め大型補強に乗り出すも、連携が噛み合わず、チームはバラバラ…
序盤は勝ち点を重ねながらも、連敗がかさんで、気がつけば13位と失速する羽目に…
当然というべきか、大久保嘉人選手も、シャドーストライカーとしての役割を求められたこともあって、ゴールを決めきれないシーズンに逆戻りします。
そして、このシーズンに、奇しくも川崎がJ1初優勝を決めてしまう皮肉な結末も突きつけられ、結局翌年には、川崎に復帰してしまったのです。
ジュビロ磐田時代(2018年~2019年)
2018年、川崎に復帰した大久保嘉人選手でしたが、既に大久保嘉人選手の抜けた穴を埋めた川崎では、出番がほとんど無く、途中出場に甘んじてしまいます。
そんな中、ロシアワールドカップの中断期間に入り、ジュビロ磐田の名波浩監督が、得点力不足解消の一手として、大久保嘉人選手に白羽の矢を立てました。
その結果、名波監督の熱意に促され、大久保嘉人選手がジュビロ磐田に移籍。
結果として17試合出場で3ゴールは物足りなさを感じますが、J1とJ2通算200ゴールを達成し、メモリアルなシーズンにはなりました。
ただ一方で、J1最終節で、古巣川崎と対戦し、先制点を挙げ、J1残留に大きく前進するも逆転負けを許し、J1参入プレーオフに回ることに…
ある意味、最も浮き沈みの激しかった一年と言えるでしょう。
そして、迎えた2019年。
J1通算200ゴールを目指し、開幕から7試合連続でスタメンで起用されますが、そこではゴールを決められず。
そこから徐々に出場機会が減り、さらに第13節終了後には大久保嘉人選手にラブコールを送ってくれた、名波浩監督が退任するなどチームも降格の危機に立たされます。
2019年11月30日、負ければ降格決定の第33節名古屋戦で、ようやく今季初ゴールをあげましたが、残念ながら1ゴールのみでシーズンを終えました。
大久保嘉人選手にとってキャリアワーストのシーズンで、チームもJ2に降格となってしまいました。
2019年12月には磐田を退団することが発表され、翌2020年1月にはJ2東京ヴェルディへ完全移籍で加入することが発表されました。
2020年は、大久保選手自身2002年のC大阪時代以来、18年ぶりにJ2でプレーをすることになります。
以上が、大久保嘉人選手のクラブ移籍遍歴です。
経験豊富なストライカーだからこそ貴重な戦力
本当に、国内外問わず、多くのチームを渡り歩いていることが分かりますよね。
それだけ経験を積んでいるわけですし、2020年はJ2の東京ヴェルディという新たな挑戦の地を選んだ大久保嘉人選手です。
ぜひ、J2優勝争いに絡めるような活躍を期待したいものです。
大久保嘉人の年俸推移
多くのチームを渡り歩いている大久保嘉人選手に対しては、そのシーズンごとに評価も変わり、年俸も随時推移しています。
では、改めて、これまでの年俸の推移を見ていきましょう。
セレッソ大阪時代
2001年:400万円
2002年:1,000万円
2003年:2,000万円
2004年:3,000万円
RCDマヨルカ時代
2005年:4,000万円
2006年:5,000万円
ヴィッセル神戸時代(第1期:2007年~2008年)
2007年:6,000万円
2008年:6,000万円
ヴォルフスブルク時代
2009年:8,000万円
ヴィッセル神戸時代(第2期:2009年(途中)~2012年)
2010年:8,000万円
2011年:8,000万円
2012年:7,000万円
2009年は、半年しか在籍しておらず、2010年も年俸8000万円であるため、ヴォルフスブルク時代の8000万円と推察。
ただし、実際の収入は2009年全体のものなので、ここでは表記として割愛しています。
川崎フロンターレ時代(第1期:2013年~2016年)
2013年:7,200万円
2014年:9,000万円
2015年:1億円
2016年:1億円
FC東京時代
2017年:1億2,000万円
川崎フロンターレ時代(2期:2018年)
2018年:6,000万円
ジュビロ磐田時代(第1期:2018年途中~2019年)
2019年:4,000万円
東京ヴェルディ時代(第1期:2020年~)
2020年:1億円
以上が、主な大久保嘉人選手の年俸推移です。
2020年の年俸は各紙報道による推定です。
J2ではありますが、MAX年俸である1億2,000万円に迫る金額となりました。
一度は半額まで落ちているものの、そこから1億円の大台まで戻したところからも、大久保嘉人選手の実績が未だ高く評価されていることがわかりますね。
大久保嘉人の評価(日本代表も含む)
大久保嘉人選手に対する評価・評判は、まさに賛否両論といった印象です。
それは、実力というよりは、チーム事情に振り回された部分も大きく影響しているので、ある意味で、かわいそうなところもあります。
例えば、ヴィッセル神戸時代では、エースストライカーとしての仕事を期待されつつも、ゴールを決めきれず、
『ノーゴーラー嘉人』
と批判されたり、また一方では、イライラが募りカードをもらいやすい傾向が見られたことで、
『カードコレクター』
という心無い批判もしばしば…
もちろんファン心理としては、ここで決めてほしいところでもシュートを外していただけに、批判する気持ちは分かります。
ただ、良くも悪くも神戸のチーム事情はそれほど良くありませんでしたし、サポートしてくれる選手がいなかったのが実情…
それでも、状況を打開するのがエースストライカーの役割なのですが、いろんな意味で厳しかったですね。
大久保嘉人を称賛する声も…
神戸時代では、厳しく批判されることも多かった大久保嘉人選手。
川崎に移籍して3年連続得点王を獲得し、世間の評価はガラリと変わります。
各スポーツニュースなどで絶賛の嵐…
その手のひら返しをするかのような光景には、驚かされましたね。
日本代表選手としての評価・評判
日本代表選手としての大久保嘉人選手は、残念ながら高くは評価されていません。
というのも、川崎のように、ポゼッションを高めて支配するサッカーを要せず、守備的布陣を引いて戦う戦術を取っていることが大きな要因。
結局、ゲームを支配してゴールを決めきるというよりも、少ないチャンスをで仕留める選手が必要と、当時は考えられていました。
そして、大久保嘉人選手に対しては、ストライカーというよりも、
- 香川真司
- 本田圭佑
- 宇佐美貴史
のような、チャンスメイクを演出する選手としての期待が高かったのです。
とはいえ、OMFはゴロゴロいますし、その中に割って入るのはかなり難しいですよね。
結局、大久保嘉人選手は、南アフリカ・ワールドカップ同様、日本代表の中ではジョーカー的存在として評価されていたわけです。
ただ、『ジョーカー』というのは、『切り札』という意味を持つ言葉ですし、決して評価していないというわけではありません。
状況を一変させる力もありますし、世間の多くが期待していたことに変わりはありません。
なかなかチャンスに恵まれていなかったというのが、正直なところでしょうか。
今後、大久保嘉人選手が日本代表に復帰するチャンスがあるかどうかは、正直わかりません。
ただ、パフォーマンスが落ちることなく、川崎スタイル(当時の監督は風間八宏氏)のような戦術を用いるなら、必要なピースになるはず。
2020年は東京オリンピックもあります。
仮に代表チームが不安定な情勢になるなど危機を迎えれば、経験豊富な大ベテランとして森保一監督が大久保嘉人選手を『サプライズ選出』する可能性もわずかながら残されています。
そのためにも、J2東京ヴェルディでの圧倒的な活躍を期待したいところです。
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まとめ
サッカー選手の中でも浮き沈みがわかりやすいストライカー…
その中でも如実に評価の浮き沈みが伺えた大久保嘉人選手。
これまで8つチームを渡り歩き様々な経験を積んできました。
プレーの幅も大きく広がり、川崎時代では、3年連続得点王を獲得するも、評価としては、浮き沈みも激しく賛否両論。
年俸も、最大1億2000万円まで高騰するも、2018年には半額の6000万円に下がってしまいます。
ただ、一度は引退を考えていただけに、移籍でチャンスを得られたことは嬉しかったはず…
そして、2019年は1ゴールに終わり悔しい思いをしているはずです。
是非、新天地・東京ヴェルディで復活となる活躍を期待しましょう!