【神の手】マラドーナの伝説エピソードと全盛期の凄さまとめ!

2020年11月25日に、サッカー界のレジェンドであるディエゴ・マラドーナが亡くなりました。

マラドーナさんといえば、サッカーファンなら知らない人はいないくらい、名前の知れ渡っているレジェンド。

いい意味でも悪い意味でも、数多くの伝説

を残しています。

ドーピング疑惑など、称賛されるべきではない部分もありますが、同時に愛されていた人物だったのも事実。

この記事では、神の手と呼ばれたディエゴ・マラドーナについて、全盛期の凄さや伝説を紹介していきます。

マラドーナの凄さがわかる選手時代の経歴

マラドーナの訃報には、現役のサッカー選手が反応しています。

アルゼンチンのスターであるリオネル・メッシ選手は、以下のような追悼のコメントを出しました。

すべてのアルゼンチン人、そしてサッカー界にとって悲しい日。

彼は亡くなったがずっと残り続ける。

なぜならディエゴ永遠から。

マラドーナの残した伝説は、ずっと語り継がれていく

という意味でしょう。

メッシ選手のコメントにある通り、マラドーナは、現役時代に素晴らしい経歴を残しているんですよ。

マラドーナといえば、

『神の子』、『神の手』

の異名を持ち、アルゼンチン代表のほか、さまざまなクラブチームで活躍。

  • 『神様』ペレ
  • 『皇帝』ベッケンバウアー
  • 『フライング・ダッチマン』ヨハン・クライフ

らと並ぶサッカー界の伝説でした。

マラドーナの伝説はいつから始まったのか?

凄さを示す、経歴を見ていきましょう!

マラドーナの伝説が始まったのは、9歳の頃でした。

幼い時から天才サッカー少年と言われていたマラドーナは、9歳の時にアルゼンチンの名門・AAアルヘンティノス・ジュニオルスのジュニアチームの入団テストに合格しました。

試合での活躍はまだですが、

10歳になると、ハーフタイムショーでリフティングを披露する

など、パフォーマンスで人気でした。

そして14歳になると、AAアルヘンティノス・ジュニオルスのトップチームに昇格。

1976年には15歳でアルゼンチンリーグの試合に出場、その2週間後には初ゴールを果たしました。

ここから、マラドーナはさらにその才能を開花させていきます。

  • 1979年、1980年には、アルゼンチン1部リーグのナショナルリーグで得点王
  • 1979年~81年まで3年連続でアルゼンチン年間最優秀選手賞を受賞
  • 1979年~80年には南米最優秀選手賞を受賞

などの大活躍を見せ、1981年に、大ファンだったボカ・ジュニアーズへの移籍が決まったのです。

その後1982年には、バルセロナに移籍しましたが、夜遊びや薬物疑惑、乱闘騒ぎによって、バルセロナ会長と険悪になり、放出という形でチームを去ることになります。

この頃から、悪い部分の伝説である、お騒がせな部分が目立つようになってきました。

マラドーナの全盛期はいつ頃か?と言われた時、多くの人が答える時期が、

1984年に移籍した、SSCナポリ時代

ですね。

今でこそ、ナポリといえばセリエAの強豪チームというイメージがありますが、実は、

マラドーナが移籍した当時のナポリは、リーグの残留争いをするくらい微妙なチーム

でした。

そんなナポリを、マラドーナはチームの中心となって、

2度の優勝(1986-87、1989-90)

に導きました。

1986-87シーズンはセリエA制覇だけでなく、コッパ・イタリアも優勝!

ナポリは国内2冠を果たしたのです。

この他にも、1988-89シーズンにはUEFAカップを優勝するなど、ナポリの黄金期を作ったマラドーナは、

『ナポリの王』

と呼ばれ、ファンから絶大な人気を誇ったのです。

もちろん、マラドーナ自身の活躍も忘れてはいけません。

  • 1984-85シーズンには14得点で得点ランキング3位
  • 1987-88シーズンは15得点で得点王

など、攻撃の主軸だった3人『Ma・Gi・Ca』の一角として存在感を示し続けました。

マラドーナの凄さはこれだけにとどまりません。

やはり、一流のサッカー選手といえば、

国の代表としての活躍

もあってこそ、その名が残るというもの。

マラドーナは、1977年に16歳4カ月という若さでフル代表出場を果たすも、最終選考から落ちてしまいました。

その後、1979年に再び代表入りすると、18歳で初ゴール!

この年のアルゼンチン代表としてのマラドーナは、

  • 6試合中5試合で6ゴールを決め、アルゼンチン代表のワールドユース初優勝に貢献
  • 大会のMVPであるゴールデンボール賞を受賞

で、間違いなくチームの中心選手でした。

そして、マラドーナを語る上で欠かせないのが、

1986年ワールドカップ

ですよね。

怪我を抱えながらもキャプテンに指名されたマラドーナは、メディアから史上最弱と言われていた前評判を覆し、

アルゼンチン代表の総シュート数の半分近くを打ち、全14得点のうち5得点5アシストする

という獅子奮迅の活躍を見せ、アルゼンチンを2度目のワールドカップ優勝に導きました。

準々決勝のイングランド戦では、伝説となった『神の手ゴール』、『5人抜きゴール』も、この大会で生まれているんですよ。

全盛期のマラドーナの伝説エピソード!

マラドーナの全盛期と言われるナポリ時代、とくに1986年頃に、多くの伝説を残しています。

全盛期のマラドーナがどれだけ凄かったのか、その伝説エピソードを紹介しましょう。

全盛期のマラドーナ伝説15人抜きゴール

ディエゴ・マラドーナとはどんな選手だったか?

語る上で、最もわかりやすいのが、

1986年W杯準々決勝で見せた、5人抜きゴール

ですね。

FIFA公式Twitterが当時の動画をアップロードしているので、それを見てもらえれば、マラドーナがいかに伝説的選手であるかわかります。

見てわかる通り、

凄まじく素早いスピード

巧みなステップとドリブル技術

ですよね。

ドリブルに入ってからは、ゴールするまで左足一本しかボールに触っていないのも凄いです。

まるで磁石でくっついているみたいに、ボールがマラドーナの左足に吸いついています。

マラドーナはスピード、ドリブル技術に加え、

  • 小柄ながら異常なまでに強靭なフィジカル
  • 相手をしっかりと見ている洞察力

もあって、まさに異次元の選手でした。

全盛期のマラドーナ伝説2神の手ゴール

1986年W杯準々決勝で、マラドーナは2点目である5人抜きゴールの前に、

伝説的なゴール『神の手ゴール』

が生まれています。

実際のところ、これは称賛されるようなことではなく、

れっきとした反則&誤審

なのですが…。

そのゴールが起きたのは後半4分のことでした。

ペナルティエリアに走ってきたマラドーナと、浮き玉を処理しようとした当時のイングランドのゴールキーパーであるピーター・シルトンが交錯。

この時、マラドーナは、空中のボールを左手で叩き、そのままボールはゴールインしたのです。

審判はゴールと判定したのですが、当然ながら、

手で叩いているのでハンドであって反則

ですよね。

当然、イングランド選手たちは抗議したのですが、その抗議も実らず、結果はマラドーナがヘディングでゴールしたものと認められてしまったのです。

この反則、誤審だったゴールのことを、マラドーナが、

「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」

と試合後に発言したことから、

『神の手ゴール』

と呼ばれるようになり、伝説化していったのです。

イングランド人は、未だにこのことを根に持っている人が、多いみたいですよ。

また、この時に副審を務めていたボグダン・ドチェフさんは、後にこのように述べています。

ディエゴ・マラドーナは私の人生を壊した。

実際に、この誤審が原因で、ドチェフさんは審判人生のキャリアを終えています。

誇張表現というわけではありません。

アルゼンチンには歓喜を、イングランドや審判には絶望を…

『神の手ゴール』は、試合に関わった人たちに、大きな影響を与えた意味でも、伝説なのでしょう。

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まとめ

『神の子』ディエゴ・マラドーナは、恐ろしく速いスピードと強靭なフィジカルを武器に世界で活躍し、

全盛期には、それまで残留争いをしていたナポリに黄金期をもたらした

アルゼンチン代表としてチームを引っ張り、ワールドカップ優勝に導いた

など、まさに伝説的な選手でした。

その偉業を称え、ナポリの背番号10は永久欠番になっているほど!

そしてマラドーナさんといえば、

  • 5人抜きゴール
  • 神の手ゴール

などの伝説エピソードも、忘れてはなりません。

これだけすごい選手でありながら、晩年は薬物や不摂生で人生に影を落としていたので、それだけが残念ですね。

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