明智光秀と織田信長の本当の関係とは?本能寺の変が起きた理由を解説

1582年6月2日。

明智光秀は織田信長の滞在する本能寺を襲い、結果、織田信長は自ら命を絶ちました。

この本能寺の変により、天下をほぼ手中に収めていた織田家は衰退していき、以降は歴史の主役からは姿を消しました。

戦国時代が、新たな局面に突入したのです。

このように戦国時代を代表する出来事となった本能寺の変。

それにしても、

なぜ、明智光秀は信長に謀反を起こしたのでしょうか?

この理由には、様々な説が展開されています。

この記事では、

本能寺の変に至るまでの織田信長と明智光秀の関係

に着目し、なぜ本能寺の変が起きたのかを解説していきます。

本能寺の変が起きた理由3大説

初期の説

本能寺の変の原因は、江戸時代から考えられてきました。

戦前から、昭和40年代頃までのメインとなる議論は、

  • 野望説
  • 怨恨説

の二つです。

野望説とは、

明智光秀が天下を取ることに目がくらんで信長を襲った

という説です。

本能寺の変が起きた当時、織田軍は中国地方では毛利氏と、北陸では上杉氏と、関東では北条氏と戦い、東西の最前線に軍や武将の主力が集中していました。

本能寺のある京都を中心とする近畿地方には、強力な軍は少数。

このような状況を利用し、信長自身が手薄になったところを襲撃し、自ら天下を取ろうとしたのが、明智光秀の真の動機であったと考えます。

これが、野望説です。

もう一つの怨恨説。

怨恨説は、

織田信長と明智光秀の人間関係における不和が本能寺の変を起こした

と言われる説です。

江戸時代以降の書物には、明智光秀が織田信長から冷遇されていたことを記述するものが出てきています。

特に本能寺の変が起きる前後は、

織田信長が明智光秀に対し事あるごとに叱責を繰り返し、二人の関係が冷え切っていたこと

に怨恨説では注目しています。

個人的に織田信長に対する恨みを積み重ねた明智光秀が、

『怒りにまかせて謀反を起こし、信長を討った』

というのが、怨恨説なのです。

変貌する動機

昭和40年代になると、紹介した二つの説に加えて、織田信長と明智光秀だけではない、

第三者の陰謀があったとする黒幕存在説

が、小説や論文などで、駆け巡ります。

ほかの誰かが、明智光秀を利用して信長を滅ぼした

と考えるわけです。

この第三者には、朝廷をはじめ、毛利輝元や徳川家康などの有力戦国大名、仏教勢力、キリスト教勢力、堺の商人までも候補として指摘されています。

この時代のほとんどの有力勢力が、本能寺の変の黒幕として名前が挙がっているといっても過言ではありません。

この黒幕存在説を皮切りに、様々な説が唱えられるようになりました。

諸説の中でも、主に

  • 野望説
  • 怨恨説
  • 黒幕存在説

の三つの説が、それぞれ正当性を競っている状況です。

本能寺の変3大説を考察

野望説は、比較的受け入れやすい説といえます。

軍が分散し、織田信長を守る軍の少なさに目をつけ、明智光秀が天下を意識したことは、十分ありうることです。

明智光秀が居城を出陣する前に連歌の会で、

ときは今天が下知る五月哉

と詠んだことからも、その野望の強さをうかがうことができます。

また、明智光秀の内心に動機がとどまっているので、歴史書に本能寺の変の理由が書かれていないことも説明がつきやすいですね。

怨恨説は、織田信長に対する明智光秀の個人的恨みが動機です。

歴史書や物語で、信長が光秀に極めて厳しい態度をとっていたことが明らかです。

しかし、根拠となる書物のほとんどは、

歴史的事件を脚色するために書かれた可能性が極めて高く、実証的な確たる証拠としては、薄弱

といえるのです。

信頼性が極めて乏しい事実をもとにして、本能寺の変の真の理由とするには、かなり難しいのではないでしょうか。

最後に、黒幕存在説についてです。

この説は、第三者の介在を前提とします。

しかし、この第三者として取り上げられている人物の範囲が非常に広く、第三者を特定するに至っていません。

これは、

明確な史料がない

とも言えます。

仮に、黒幕となる第三者が存在していたとしても、その人物が計画を練っていたなら、信長没後、すぐに天下統一のための行動をとったはずです。

しかし、実際の歴史では、本能寺の変の後には、信長の家臣団で争いが起こり、羽柴秀吉が後継者に確定する賤ケ岳の戦いまで内紛は継続していくのです。

現実の歴史の混乱ぶりと、周到な計画を練った黒幕の存在という考え方は、矛盾するものです。

よって、

黒幕存在説も歴史を面白くするための脚色

と考えるのが妥当といえるのではないでしょうか。

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まとめ

明智光秀は、

野望に駆られ、自ら天下人になるため

に、主君である織田信長に謀反を起こしました。

野望説に、矛盾要素が存在しないことだけでなく、戦国時代の考え方からも明智光秀の謀反には説明がつきます。

当時は、

下克上の思想は当然

とされていました。

しかも、明智光秀は古くからの織田家の家臣ではありません。

もとは斎藤氏、足利氏などの臣下なのです。

才能を見込まれ、信長に仕えたものの織田家への忠誠心は、きわめて低いと考えられます。

  • 下克上思想
  • 明智光秀の根無し草的存在

ということ相まって、本能寺の変に至ったと考えるのが自然です。

見落としてならないのは、本能寺の変は謀反であり、裏切りです。

この点から考えれば、謀反人の明智光秀を過大に脚色することはナンセンスであり、何の歴史的意義も持ちません。

確かなことは、日本史上の最大の英雄である織田信長の時代が終わり、日本が新しい方向へと動き出した事実です。

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