- 天下人
- 関白
- 太政大臣
- 太閤
など、いくつもの異名を持つ豊臣秀吉。
豊臣秀吉の出自は、
尾張の国の農民、あるいはそれよりさらに下の階層
と言われています。
そんな下層階級出身の男が、一代にして天下を取ったのです。
天下人の1人である豊臣秀吉の性格を辿ってみると、
性格がある時期を境に大きく変わり、極悪人のような性格の悪さになってしまった
と伝えられていることがあります。
今回の記事では、豊臣秀吉の性格が悪い説についてです。
その理由と豊臣秀吉の伝説エピソードもあわせてお話していきます。
豊臣秀吉の性格が悪い?人柄を紐解くエピソードも交えて紹介
豊臣秀吉の性格といえば、どんなイメージがあるでしょうか?
創作作品などのイメージから見る豊臣秀吉は、
- 陽気で尽くすタイプ、さらには家族思い
- 人の心をつかむのが上手かった
というような、どちらかというと、そこまで性格が悪くなく、むしろ性格の良い人物という印象を抱く人も多いですね。
しかし、『豊臣秀吉の性格』といった人物像の資料には、確実で実証的なものが少なく、データが多くは残っていません。
戦国時代の武将に関する資料は、江戸時代に書かれたものが多いのです。
そして、徳川家の治世において、豊臣秀吉は旧敵だったために、後世に伝えにくい状況でした。
データが少ないことから、確たることは言えませんが、豊臣秀吉の性格が変貌してしまったのには、『ある時期を境にしている』と考えられています。
それが、
- 天下統一後
- 信頼していた家族の死
この2つです。
天下を取る前と後の、豊臣秀吉の性格の比較をしてみましょう。
天下を取る前の豊臣秀吉の性格
- 人なつこく陽気
- 家族思い
- 主君によく尽くす
- 人の命を奪うことは好かない
- 人たらしの名人
秀吉といえば、
人の心をつかむことが、とても上手かった
そんな人物として有名ですよね。
尽くして信長からの信頼を得たり、部下のミスを責めず、忠臣たちを増やしていったり…。
総括すると、
『人たらし』
になるのかもしれません。
人たらしは、豊臣秀吉の特技、得意技です。
『よくいえば、他人から好意を持たれる、悪くいえば、人をたらしこむ』
ということで、これで豊臣秀吉は、味方やファンを作ってきました。
天下を取った後の豊臣秀吉の性格
- 傲慢になり、自分が神になろうとした
- 冷酷で残虐
この二つが、最も大きな変化です。
天下人となった後の豊臣秀吉は、次第に傲慢になっていき、性格も冷酷で残虐になってしまいました。
その代表的なエピソードが、
- 二度にわたる朝鮮出兵
- 甥・豊臣秀次の切腹命令
- 幼児を含む一族の処刑
ですね。
なぜ豊臣秀吉の性格が、このように変化したのでしょうか?
それとも、もともと豊臣秀吉の性格は悪く、残虐で冷酷な人物だったのでしょうか?
筆者としては、豊臣秀吉の性格は変貌したのではなく、
もともと狡猾な人間であり、それを隠していただけなのでは?
と考えています。
残虐で冷酷、狡猾だったことを、性格が悪いとひとくくりにしていいのかは微妙ですが…
実は豊臣秀吉は、天下統一前から狡猾で残虐な部分があり、それを示すエピソードもあります。
まず、残虐性を示すエピソードの1つが、
第一次上月城の戦い
です。
この戦いは、織田と毛利の緒戦に起きたものであり、当時は羽柴姓だった秀吉は播磨侵攻を担当。
手始めに井戸を奪って水の供給を遮断し、そのうえで上月城を攻撃していました。
水まで奪われ、さすがにもう限界を迎えた上月城側は、詫びを入れて降伏を申し出たのですが…
羽柴秀吉は、降伏を拒否!
それどころか、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を阻止したうえで、敵兵の首をはねたのです。
羽柴秀吉が行ったのは、これだけではありません。
その後、毛利方への見せしめとして、
女・子供200人あまりを播磨・美作・備前の境目において、女は磔、子供は串刺しにして、並べおいた
というのです。
この他にも、播磨侵攻においては『三木の干し殺し』に代表される兵糧攻めなどをし、羽柴秀吉時代にも、残虐行為はあったのです。
もう1つ、豊臣秀吉の残虐性を示すエピソードがあります。
時系列としては天下統一後の話になってしまいますが、聚楽第落書き事件です。
ある夜、聚楽第に豊臣秀吉の政治を批判する落書きが書かれてしまいます。
たかが落書きではあるものの、それに激怒した豊臣秀吉が何をしたかというと…
- 警備を担当していた17人の番兵の耳鼻を削ぎ、磔にして処刑
- 容疑者の尾藤道休とそれを匿った願得寺顕悟の家を破壊、さらに彼らが住んでいた一画を焼き払った
- 尾藤道休の妻子を含む天満の町民66人が捕えられ、無関係の人まで六条河原で磔にして処刑した
完全に私情からくる恨みで、無関係の人まで処刑しているあたり、残虐性の他にも、
自己顕示欲の強さからくる傲慢さ
が溢れていると言えるでしょう。
また、天下統一前の性格として紹介した部分も、裏を返せば秀吉の狡猾さが見えると言えるのではないでしょうか。
尽くすタイプだったのも、
あくまで出世街道を歩むためにゴマすりをしていた
と言えますよね。
事実、信長が亡くなった後は、亡き信忠の嫡子・三法師を担ぎ上げて織田家を乗っ取り、その後は織田一族を冷遇しました。
もう1つ、直属の部下に対してミスを許すなど寛大な態度を取ったのも、平民出身で家臣団が少なかった秀吉が、多くの味方を取り込もうと思って見せていた顔だと解釈できます。
狡猾さを隠したまま、ずっといい顔をして善人を演じてきた
というのが、豊臣秀吉の本性なのかもしれません。
豊臣秀吉と織田信長の関係
豊臣秀吉の織田信長への思いと関係は、時代によって変遷していたようです。
豊臣秀吉側から見た織田信長像は、
大恩人⇒怖いが敬愛する主君⇒信長没後の織田家は対立者
と変わっています。
織田家に仕えた頃は、ひたすら仰ぎ見る偉大な主君だったのですが、次第に、
才能はあるが、欠点も目立つ存在
に変化していったように思われます。
変化の時期は、1573年の浅井・朝倉軍との戦いの頃から、1582年の明智光秀の謀反までの間です。
その間に、徐々に豊臣秀吉の中の信長像は変わっていったのでしょう。
事実、豊臣秀吉は信長の亡くなった後に、信長のことをこのように評しています。
信長公は勇将なり、良将にあらず。
剛の柔に克つことを知り給いて、柔の剛を制することを知られず。
要するに、
信長は部下から恐れられるような態度を取っていたため、勇将ではあったが良将ではなかった
というわけです。
ただし、こんなことを言っておきながら、豊臣秀吉は信長への恐怖心も残っていたものと思われます。
本能寺の変以降、豊臣秀吉は織田家の一族を次々に排除し、根絶やし同然にしてしまいました。
これは織田家の遺児がいると、自分が天下を取るための障害になることが、一番の理由でしょう。
織田信長ほどの才能はなくても、その血を受け継いでいる遺児達も、豊臣秀吉にとっては未来の恐怖に映ったのかもしれませんね。
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まとめ
今回は、豊臣秀吉の性格が悪いという説から、彼の伝説エピソードなどを調べてみました。
天下を取る前と後では、豊臣秀吉の性格ががらりと変わったように見えますが…
実際のところ、昔から狡猾で残虐な行為も平気で行っていました。
天下人になってから、良い補佐役だった秀長を失い、タガが外れて、その性格が顕著になっただけです。
若い頃は狡猾で冷酷非道な部分を隠し、いい顔をしていただけとも言えます。
とはいえ、豊臣秀吉の生きた時代は戦国乱世。
残虐と言われるような、一族根絶やしも珍しくはなかった時代です。
武将の大半は、残虐性を持っていたのかもしれないですね。