柿谷曜一朗の評価とセレッソ移籍の理由!バーゼルや海外の反応は?

スイス一部リーグのFCバーゼルに在籍していたFW柿谷曜一朗選手は、2015年に古巣のJ2セレッソ大阪に移籍しました。

柿谷曜一朗選手が、バーゼルに移籍してから、わずか1年半ほどしか経っておりません。

しかも、バーゼルへの移籍当初は、最初の試合で得点するなど、そこそこの活躍も見せていました。

それなのに、なぜバーゼルが柿谷曜一朗選手を手放そうと考えたのか。

また、セレッソ大阪は、なぜ柿谷曜一朗選手を呼び戻そうとしたのか。

筆者なりに、柿谷曜一朗選手がセレッソ大阪に復帰したその理由や原因などを考察してみました。

もう一つ、柿谷曜一朗選手の海外での評価も、大いに気になります。

そこで当記事で、海外での評価や、柿谷曜一朗選手の今後も含めて、お話していきましょう。

柿谷曜一朗のサッカープロフィールと移籍の経緯

まず、柿谷曜一朗選手のこれまでのサッカーのプロフィール・経歴を簡単に紹介しましょう。

2006年 セレッソ大阪とプロ契約

2006年 高校在学中にアーセナルやインテルミラノのユースの練習に参加。

2006年 AFC U-17アジア選手権では唯一のプロ選手として大会に出場。

2009年 練習への『遅刻の常習犯』という名誉ある称号を得る。

2009年 監督からプロ意識の欠如を指摘され、徳島ヴォルティスへ期限付き移籍。

2011年 素行の悪さが改善され、キャプテンとなる。

2012年 セレッソ大阪に復帰。

2013年 日本代表に初選出。(東アジアカップ2013)

2014年 FCバーゼルに移籍。

2016年 セレッソ大阪に復帰。

柿谷曜一朗選手は、2013年には東アジアカップの第1戦中国戦で代表戦初出場を果たし、後半14分には代表初出場で初得点を上げました。

さらに、第3戦となる韓国戦では、2得点を上げる大活躍をし、大会得点王にも輝きました。

しかし、その後の親善試合では得点できず、ついにザッケローニ監督(当時)のスタメンからも柿谷曜一朗選手が漏れてしまうように。

それでもワールドカップ本大会には出場を果たしましたね。

とはいえ、それは途中出場の2試合だけ。

しかも柿谷曜一朗選手の出場時間はわずかなものです。

こうした経緯があり、柿谷曜一朗選手は、2014年にセレッソ大阪から、スイス一部のバーゼルに移籍したのです。

バーゼル移籍後は、開幕試合でゴールを決めたものの、その後は鳴かず飛ばずの状態が続きました。

2014年シーズンは14試合3得点、その後も微妙な結果に終わりました。

こうしてわずか1年半足らずで、柿谷曜一朗選手は、古巣・セレッソ大阪に戻ることになったわけです。

柿谷曜一朗選手のバーゼルとの契約は、4年契約なので、セレッソ大阪への移籍には当然違約金が発生します。

その金額は、約1000万ユーロ(約13億5千万円)と言われています。

しかし、クラブ間交渉で、大幅に減額することになり、セレッソ大阪に完全移籍の形で柿谷曜一朗選手が戻ってきたのです。

せっかく鳴り物入りで獲得した柿谷曜一朗選手を、なぜバーゼルは違約金を減らしてまで手放したのか。

まぁこれは単純に、バーゼルが柿谷曜一朗選手を

『これは使い物にならぬ』

と判断したからではないでしょうか。

では、なぜバーゼルはそう判断したのか。

そして柿谷曜一朗選手がセレッソ大阪に復帰した理由について、その辺りを次にお話していきます。

柿谷曜一朗のバーゼル退団の理由・原因は?

柿谷曜一朗選手が、セレッソ大阪に復帰したその理由を書く前に、

なぜバーゼルは柿谷曜一朗選手を手放したのか

という問題を考えみましょう。

バーセル側が、使い物にならぬと判断したと先ほど書きました。

その柿谷曜一朗選手が『使えない』という理由についてです。

元々、柿谷曜一朗選手は、広い視野と華麗なボールコントロールを持つゆえに、しばしば『天才』などと評されてきました。

元セレッソ大阪監督のセルジオ・ソアレス氏も、

日本で柿谷ほどの技術を持っている選手はなかなかいない。

と高く評価していたそうです。

セレッソ大阪には、柿谷曜一朗選手と同期に入団した、あの

香川真司選手よりも、入団当時は期待が大きかった

と言われていましたから、彼の天才ぶりが伺えます。

しかも、バーゼルに入団した初戦では、見事にゴールを挙げています。

このような選手を、バーゼルが手放す理由があるのでしょうか?

おそらくは誰もが抱く疑問でしょう。

もちろん柿谷曜一朗選手のバーゼル退団の真の理由は、本人とバーゼル幹部以外には、正確な真相はわからないと思います。

しかし、ある程度の察しはつきますよね。

一つの理由は、移籍当時の

バーゼルの監督であるソウザ氏の構想と、柿谷曜一朗選手のスタイルが合わなかった

という点にあると思います。

ソウザ氏は、選手には柔軟な思考と姿勢を求めるタイプだったようで、

「得意分野しかできないし、やらない。」

という、柔らかさとは真逆のスタイルの柿谷曜一朗選手とは、だいぶ離れた位置にあったようです。

そのためか、柿谷曜一朗選手の試合出場回数は、時間が経つに連れて減っていきました。

いわゆる『干された』という形ですね。

どんな名選手でも、試合に出なければ、得点をあげることなどできるはずがありません。

さらに、もう一つの理由は、柿谷曜一朗選手の性格的な問題もあったのではないでしょうか。

柿谷曜一朗選手は、決して人付き合いの良い方ではありません。

むしろ自己中心的で、わがままな性格だったと言われています。

しかも、一度こうと思い込んだら、なかなかそれを変えない、頑固な面もありました。

それゆえにバーゼルの選手との交流もあまりなかったのではないかと推察している次第です。

セレッソ大阪時代の『遅刻の常習犯』というタイトルは、伊達ではなかったことかもしれません。

このような状況が重なり合って、バーゼル側の『柿谷曜一朗は使えぬ』という判断に至ったと思われるのです。

柿谷曜一朗がセレッソ大阪に復帰した理由・原因とは?

それでは、セレッソ大阪側から見た、柿谷曜一朗選手の呼び戻しの理由・原因について考えてみます。

2016年当時、セレッソ大阪はJ2に陥落していました。

当然ながらJ1復帰への想いは強いものがあったでしょう。

セレッソ大阪は、柿谷曜一朗選手のバーゼルへの移籍金として、バーゼルから約3億円を獲得したそうです。

しかし、今回の買い戻しの違約金は、13億円超から大幅に値切ったとはいえ、以前受け取った移籍金の倍額以上。

つまり、

バーゼルから獲得した3億円以上のお金を支払ってまで、セレッソ大阪は、柿谷曜一朗選手が欲しかった

ということになります。

果たして、金銭的に元が取れるものでしょうか?

この理由の一つには、フォルラン選手とカカウ選手の退団も、柿谷曜一朗選手の呼び戻しの大きな理由になるでしょう。

とくにフォルラン選手は、10ゴールをあげて、J2得点王でしたので、セレッソ大阪のJ1復帰には、絶対残って欲しい選手だったのです。

なのに、なぜフォルランをセレッソ大阪が手放したのかといえば、

会社の体力の問題

ということです。

要は、セレッソ大阪にお金がなかったのです。

わずか半年間で3億円

と言われるフォルラン選手の報酬を支払うことができなかった、ということですね。

このようなわけで、フォルラン選手もカカウ選手も世界的に有名なストライカーですが、それが短期間で二人とも退団してしまったわけです。

なんとかして、セレッソ大阪にとってのエースストライカーを獲得せねばと、チームは焦ったでしょう。

しかし、お買い得な世界的なストライカーなど、そんじょそこらにゴロゴロいるわけがありません。

もちろん日本の選手でも優れたFWを手放すチームはありません。

ならば、手近で済まそうと(言葉は悪いですが)、柿谷曜一朗選手を買い戻した、ということではないかと推測しています。

お金の面でも、フォルラン選手の年棒6億円(推定)と、柿谷曜一朗選手の違約金は、釣り合っていたことになります。

これが柿谷曜一朗選手のセレッソ大阪復帰の主な理由だろうと思う次第です。

柿谷曜一朗の移籍の噂

ところで、2018年になると、妙な噂が流れ始めました。

それは、柿谷曜一朗選手が、

メキシコリーグに移籍する

という噂です。

これはどうやら、メキシコリーグでの本田圭佑選手の活躍に刺激されてのものらしいですね。

もうひとつは、

ガンバ大阪に移籍

という噂もあります。

こちらは、かつて指導を受けたレヴィー・クルピ氏が、ガンバ大阪の新監督に就任するからです。

レヴィー・クルピ氏がセレッソ大阪の監督時代には、ずいぶんとお世話になった(暴れ回った)柿谷曜一朗選手。

メキシコリーグ説よりは、だいぶ信頼性があるのではないでしょうか。

これが、どうなるかと思っていたら、2018年1月14日にセレッソ大阪から、

柿谷曜一朗選手残留

の発表がありました。

柿谷曜一朗選手はインスタグラムで、

今年に入ってから本当にたくさん悩みました。

ただ、柿谷曜一朗を応援してくれている方々の温かい言葉、想いを受け止めて決めることができ、まだまだ本当に未熟者だと改めて感じました。

2年間キャプテンとしてみんなを引っ張るつもりが、逆に足を引っ張ってしまってたこともたくさんありました。

もう一度自分を見つめ直してがんばります。

と綴っています。

柿谷曜一朗選手は、2017年には、J1リーグで34試合に出場し、6ゴールを挙げています。

そして、セレッソ大阪の初のタイトルとなる、ルヴァンカップと天皇杯の2冠獲得に大きな役割を果たしました。

キャプテンを任され、自分を客観的に『未熟者』と認識できるようになったのは、やはり進歩なのでしょうね。

柿谷曜一朗の海外の評価は?

海外での評価を語る前に、柿谷曜一朗選手を巡るエピソードをひとつ。

かつて『遅刻の常習犯』の栄えある称号を獲得した頃のセレッソ監督は、レヴィー・クルピさんでした。

ある日、前日2得点した柿谷曜一朗選手は、翌日の練習に得意技『遅刻の常習犯』を発動してしまいました。

それに激怒したクルピ監督は、カウンターとして徳島ヴォルティスへの期限付きの島流し技を発動したわけです。

2012年には、待望のJ1復帰を果たしたセレッソ大阪で、柿谷曜一朗選手は、11ゴールを上げ、Jリーグ優秀選手賞を受賞。

その活躍により、ドイツ1部リーグのニュルンベルクから移籍オファーを受け、本人は

「98%位行く気だった」

と大いに乗り気だったようです。

しかし、シーズン終了後に当時のセレッソ大阪のエース・森島寛晃選手に招かれ、セレッソ大阪のエースナンバー『8番』の継承を要請されて大感激!

柿谷曜一朗選手は、即座にセレッソ大阪に残ることを決意したということです。

このセレッソ大阪の8番は、

森島寛晃選手、香川真司選手、清武弘嗣選手と、セレッソ大阪のみならず日本の代表的名選手

が代々受け継いできた、由緒あるエースナンバーなのです

さて、柿谷曜一朗選手の海外での評価ですが、この種の評価にありがちな、賛否両論という印象が強いですね。

ファンの声をランダムに挙げてみると、以下のようなコメントが聞こえてきました。

「力強いパフォーマンス。」

「ポジティブだった。」

「良いパフォーマンスだった。」

「柿谷のプレーは気に入らなかった。」

「単純にシュートを打たないし、ボールを持ちすぎる。」

「中に入るのが速すぎる。」

「柿谷は酷かった。」

などなどです。

メディアでは、柿谷曜一朗選手の最初のシーズンの開幕戦などは、それなりに評価が高いようでした。

しかし、その後は、かなりシビアな評価になってきています。

これは柿谷曜一朗選手自身の試合への出場回数と比例していますね。

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まとめ

筆者の柿谷曜一朗選手の人間像としては、自己中心的な性格と裏腹に、

森島寛晃選手からのエースナンバー継承依頼に感激する

など、かなり複雑な印象があります。

柿谷曜一朗選手のサッカー選手として一番の問題は、

考え方が固くて融通が利かない

という点のような気もしますね。

これは柿谷曜一朗選手の性格的にもプレイの幅の点でも、そのような印象を大きく受けてしまうのです。

それでも徳島移籍や、海外での経験などで、かつてとは柿谷曜一朗選手自身の考え方もかなり変わってきたようですよ。

これらの経験を糧にして、セレッソ大阪で柿谷曜一朗選手が素晴らしい活躍をすることを大いに期待しています!

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