東北楽天ゴールデンイーグルスのGMである石井一久さん。
吉本興業に入社して、芸能活動をおこなっていることや、テレビでの気の抜けたような言動から、
本当に野球選手だったのか?
と思う人も多いみたいですね。
しかし石井一久さん、実は『天才』と呼ばれるほど素晴らしい投手でした。
ストイックな一面を持ち、多くの投手から尊敬されているほど。
この記事では、そんな石井一久さんについて、現役時代の成績や年俸、さらには天才と呼ばれた石井一久さんの伝説的なエピソードも紹介していきます。
石井一久の現役時代の成績は?
石井一久さんは現在、
- 吉本興業の契約社員
- 東北楽天ゴールデンイーグルスのGM
として活動しています。
メディア露出した際の石井一久さんは、かなりおどけた印象があって、野球選手らしさを感じませんが…
実は石井一久さんは『天才』と言われるほどの投手でした。
ヤクルト、ドジャース、メッツ、西武でプレー。
スイッチの切り替えのできる人で、プロ野球選手としてスイッチがオンになっている時は、非常にストイックだったのです。
ヤクルトの石川雅規投手や西武の菊池雄星投手など、多くの左腕のお手本となり、また後輩たちに多大な影響を与えた選手でした。
そんな天才・石井一久さんの現役時代の成績を振り返ってみましょう!
石井一久の年度別成績
ヤクルト時代
1992年 12試合 0勝0敗 防御率4.18 22奪三振 WHIP1.43
1993年 19試合 3勝1敗 防御率4.70 66奪三振 WHIP1.45
1994年 54試合 7勝5敗 防御率4.08 98奪三振 WHIP1.56
1995年 26試合 13勝4敗1セーブ 防御率2.76 159奪三振 WHIP1.24 ★最高勝率
1996年 8試合 1勝5敗 防御率5.23 26奪三振 WHIP1.61
1997年 18試合 10勝4敗 防御率1.91 120奪三振 WHIP1.05
1998年 28試合 14勝6敗 防御率3.30 241奪三振 WHIP1.29 ★最多奪三振
1999年 23試合 8勝6敗 防御率4.80 162奪三振 WHIP1.46
2000年 29試合 10勝9敗 防御率2.61 210奪三振 WHIP1.15 ★最多奪三振、最優秀防御率
2001年 27試合 12勝6敗 防御率3.39 173奪三振 WHIP1.24
ロサンゼルス・ドジャース時代
2002年 14勝10敗 防御率4.27 143奪三振 WHIP1.58
2003年 9勝7敗 防御率3.86 140奪三振 WHIP1.56
2004年 13勝8敗 防御率4.72 99奪三振 WHIP1.47
ニューヨーク・メッツ時代
2005年 3勝9敗 防御率5.14 53奪三振 WHIP1.49
ヤクルト時代
2006年 28試合 11勝7敗 防御率3.44 170奪三振 WHIP1.33
2007年 28試合 9勝10敗 防御率4.16 163奪三振 WHIP1.23
西武時代
2008年 25試合 11勝10敗 防御率4.32 108奪三振 WHIP1.40
2009年 22試合 9勝9敗 防御率4.29 131奪三振 WHIP1.38
2010年 18試合 9勝6敗 防御率3.70 93奪三振 WHIP1.33
2011年 23試合 6勝9敗1ホールド 防御率4.31 94奪三振 WHIP1.32
2012年 24試合 10勝5敗 防御率3.33 74奪三振 WHIP1.28
2013年 7試合 0勝1敗3ホールド 防御率6.75 5奪三振 WHIP1.69
通算成績(22年)
524試合 2717.1回 182勝137敗1セーブ4ホールド 防御率3.80 奪三振2545 WHIP1.35
全く無名だった東京学館浦安高校で、
4試合52奪三振
という記録を作り、一気に注目された石井一久さん。
1991年のドラフト1位でヤクルトに入団します。
プロ入り後、しばらくは先発・中継ぎを転々としていましたが、1995年から本格的に先発として活躍。
それから何度も2ケタ勝利を挙げ、メジャーリーグでも通算39勝34敗の成績を残しました。
そんな石井一久という投手はどんな投手だったのか?
それを語る上で、まず挙げられる特徴が、
奪三振率の高さ
でしょう。
最多奪三振のタイトルを獲得した1998年の奪三振率は11.05であり、この数字はプロ野球記録です。
最速156キロのストレートに、ストレートと同じ軌道を描きながら突如大きく曲がるスラーブ、そしてフォークを武器に、三振の山を築き上げました。
みるみるうちに三振を奪っていき、
1500奪三振到達速度は1417イニング目で、これはプロ野球史上最速です。
2000奪三振の到達速度も、杉内俊哉さんに次ぐ2位となっていて、いかに奪三振率の高い投手だったかわかる数字となっています。
メジャーリーグ移籍後は、カットボールやツーシームなども織り交ぜ、打たせて取るスタイルへと変わっていきましたが、スタイルを変えても奪三振能力は健在でした。
(メジャー移籍前の通算奪三振率9.70に対し、帰国後の通算奪三振率は7.78)
石井一久さん本人曰く、
「三振の取り方を知っている。」
とのことで、それを数字が証明してみせたのです。
しかし、石井一久さんにも欠点がありました。
それが、
- コントロールの悪さ
- 怪我の多さ
の2つです。
制球難は酷く、現在でも、
1シーズン20暴投
はプロ野球の左投手としては最多(歴代最多は新垣渚さんの25暴投)の記録となっています。
さらに、1998~99年は最多与四球を記録。
ドジャース時代にも2002年にシーズン最多与四球(2位は野茂英雄さん)の不名誉な記録を作ってしまっています。
また、怪我は何度もしているため、好不調の波が激しく、成績にムラがあるのも欠点と言えるでしょうね。
怪我がなければ間違いなく200勝できていただけに、惜しい投手だったなぁ…とも思わされます。
まぁ、当の本人は200勝などどうでもよく、数字を全く気にしない人だったのですが。
それについては、後ほど紹介します。
石井一久の年俸推移!
石井一久さんの現役時代の年俸についても調べてみました。
メジャーリーグ時代の年俸は、当時のレートで日本円に直したものとなっています。
石井一久の年俸推移
1992年 700万円
1993年 980万円
1994年 1200万円
1995年 2800万円
1996年 5100万円
1997年 4000万円
1998年 6800万円
1999年 1億1000万円
2000年 1億2000万円
2001年 1億5000万円
2002年 約9000万円
2003年 約2億5750万円
2004年 約2億9750万円
2005年 約3億5750万円
2006年 2億4000万円
2007年 2億2000万円
2008年 2億2000万円
2009年 2億5000万円
2010年 1億9000万円
2011年 1億9000万円
2012年 1億7000万円
2013年 1億9000万円
生涯で33億円を稼いだ
という、まさにトッププレイヤーというにふさわしい年俸ですよね。
メジャーリーグ2年後から引退までずっと1億円以上ですし、
最高年棒は約3億5750万円!
とても夢のある数字です。
これだけ稼いでいれば、あらゆるものをストックルームにストックしている大豪邸で、愛車のロールス・ロイスを手にしているのも頷けます。
石井一久の伝説エピソード
あの天才と言われた伊藤智仁さんに
「天才」
と称された石井一久さん。
石井一久さんは、数多くの伝説を持っていて、その伝説が非常に面白いというか、独特だなぁと感じさせてくれます。
石井一久伝説エピソード1 野球よりサッカーの方が好きだった
石井一久さんが野球を始めたのは、野球が好きだったからとか、そういう理由ではありません。
実は、石井一久さんは小学校の低学年の時に喘息を持っていました。
そこで、石井一久さんの父親が、
「野球をやってみたらどうだ?」
と言われて始めたのがきっかけです。
しかし、実は石井一久さんは…
中学生の時にサッカーにはまってしまい、中学の頃野球から離れている時期がありました。
そういうこともあって、野球が特別好きだから野球をやっている、というわけではなかったのですね。
ここでも天才エピソードがあり、中学3年生の頃、
「最後だから出てこい」
と言われて試合に出場すると、その試合で2本のホームランを打つ大活躍!
石井一久さんの活躍が、野球の強い高校の目に留まり、スカウトされたことで高校でも野球をすることとなるのです。
そして高校になってから、石井一久さんは投手をやることとなりました。
石井一久伝説エピソード2 プロ野球選手は目指していなかった
実は、石井一久さんはプロ野球選手になるつもりはなかったんです!
野球は本来なら、高校卒業と同時にやめようとしていたのですが…
先述の52奪三振を打ち立てて以降、プロのスカウトがこぞって石井一久さんのところへ来たため、その結果プロ志望届を提出し、プロ野球選手になったそうです。
石井一久さん曰く、
「知らないうちにプロ野球選手になっていた。」
とのこと。
もともとプロを目指していたわけではなかったので、プロになってからも憧れの投手はとくにいません。
記者に聞かれても回答に困ったため、咄嗟に思い浮かんだ桑田投手の名前を出したそうですよ。
才能があったからその道に行っただけ、という、まさに天才らしいエピソードと言えますね。
石井一久伝説エピソード3 FA移籍や引退に対する独特の考え方
西武へFAで移籍した石井一久さんですが、その理由は、契約面で何かこじれたとか、そういうわけではありません。
石井一久さん曰く、西武へ移籍したのは、
「新しい友達がほしかったから」
とのこと。
まさかそんな理由で新天地を求める選手がいるなんて…。
その後、西武では多くの後輩たちから慕われ、とくに岸孝之投手(現楽天)とは、友達のように接していたとのことです。
菊池雄星投手もその1人で、今の菊池雄星投手があるのは、間違いなく石井一久さんの功績と言っていいでしょうね。
そして、引退の際も、石井一久さんは周りから
「もうすぐ200勝できるのだから、もう少しやったらどうだ?」
というようなことを言われていたみたいです。
しかし、石井一久さんはスッパリと引退。
テレビでは
マンネリ化したから。
200勝にこだわっていない。
などと言っていました。
200勝をしたところで、今後の人生の何の役にも立たない、と数字には全然こだわっていないんですね。
しかし、引退理由については、西武の公式サイトでの引退記事では、
今でも勝ちたいと思う気持ちもあるし、やれるという気持ちもありますが、そこに向うまでの準備に少し疲れたかなというところだと思います。
と語っていました。
石井一久さんのことですから、マンネリ化というのは、いわゆるテレビ受けする内容として発言したのでしょう。
まぁ、気力がなくなったという意味では、マンネリ化と表現するのも間違ってはいないかもしれませんね。
プロ野球は毎年シーズンに向けコンディション調整、そしてシーズンへ…という、大雑把にまとめてしまうと、やっているのは同じことの繰り返しですからね。
石井一久伝説エピソード4 ノーヒットノーランを放棄して降板しようとした
1997年9月2日、この日の横浜戦で、石井一久さんはノーヒットノーランを達成しています。
3回には、ベンチにいる伊藤智仁さんに対して、
「今日はいける気がします。」
と言い放つと、その後もノーヒットでついに8回も抑えました。
しかしここで、石井一久さんは野村克也監督に対し、
もう、やめときますか?
記録作ったら今後の野球人生が何だか怖いし…。
と、まさかの降板を切り出すのです。
(実際には、前年の手術の影響で、1試合に100球という投球制限を言い渡されていたのも理由の1つ。)
結局、野村克也監督に
「アホ!めったにないことやから最後まで投げろ!」
と叱られたことで9回も登板し、14球で抑えて見事ノーヒットノーランを達成したのでした。
ちなみに、野村克也監督とは相性が良かったらしく、石井一久さんは自己流の投球術でプレーをしていました。
しかしコントロールの悪さから、コーチたちから色々教えられたりするのですが…。
なんと石井一久さんは、それらのアドバイスを
すべて無視!
一方で、監督は石井一久さんのことを放置して何も言わなかったため、石井一久さんはのびのびプレーができたのです。
しかもこの時、
横浜が首位ヤクルトを猛追していて、勢いに乗っていた中での直接対決でした。
それをノーヒットノーランで気力をへし折ってしまったのですから、伝説エピソードの1つと言えるでしょう。
このように、何とも不思議な伝説を数多く持つ石井一久さん。
この他にも、
- ドジャース移籍の理由は空が青くて環境がよかったから
- 引退セレモニーの時にはセグウェイに乗ってグラウンドを一周した
などのおもしろエピソードもあり、本当に面白い人だなぁと、改めて感じさせられましたね。
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まとめ
東北楽天ゴールデンイーグルスのGMであり、吉本の契約社員である石井一久さん。
日米通算182勝の記録を持つ、
奪三振マシーン
として名を馳せた一流投手でした。
しかし、石井一久さんのエピソードを見れば見るほど、彼はプロ野球選手というより、
野球の才能があった自由人
と言った方がいいのかもしれません。
事実、石井一久さん自身が、プロ野球選手になるために必要なこととして、このようなことを述べていました。
「才能がないとプロにはなれない、努力だけでプロに入ると限界がくる」
石井一久さんは才能があったからこそ、あれだけの活躍ができるまでに成長できたのではないでしょうか。