一休さんの本名や実在モデルを紹介!ヤバイ性格やエピソードも!

とんちで有名な『一休さん』という作品がありますよね。

一休さんは、子供の頃はかなり真面目な人物だったのですが、実はモデルとなった一休宗純という僧は、

かなり破天荒坊主

だったのです!

お坊さんとして、本当にこれはいいのか?

と感じてしまうような、いわゆる落ちこぼれたというか、現在でいう不良のようなエピソードもあり、筆者は驚くしかできませんでした。

はたして一休さんのモデルとなった人物は、どれだけヤバい性格だったのでしょうか!?

当記事で、一休さんのモデルとなった実在人物・一休宗純について、性格や破天荒エピソードを紹介します!

一休さんのモデルとなった実在人物の本名は?

一休さんといえば、説話『一休咄』が江戸時代に作られ、さらには『一休さん』で有名になった”とんちの達人”というイメージがありますよね。

日本史の教科書でも、

ちょっと出てくる…

という程度の人物ですし、歴史好きな人でないと、なかなか一休宗純という名前は出てこないでしょう。

この一休さんのモデルとなった人物は、もう既に名前を出していますが、本名は、

一休宗純

という人物です。

筆者は歴史好きなので、一休宗純という名前くらいは知っていましたが、実は一休宗純という人物、名前がたくさんあるんですね。

どれも本名で、

  • 幼名の千菊丸
  • 6歳に入門した時からは周建
  • 狂雲子(きょううんし)
  • 瞎驢(かつろ)
  • 夢閨(むけい)

などと、たくさんの名前を名乗り、その後、謙翁宗為の弟子となったことで、宗純という名に改めます。

ちなみに、一休という道号は、『洞山三頓の棒』という公案に対し、

「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答えたことから、謙翁宗為亡き後、次の師である華叟宗曇によって名付けられました。

ただ、この一休宗純という人物、どんな人物だったのでしょうか?

彼は、17歳で謙翁宗為の弟子になったことから逆算していくと、

1393年の生まれ

と言われています。

(そのため、足利義満は既に出家していて前将軍なので、アニメ『一休さん』は矛盾)

臨済宗の僧というだけでなく、詩人としても一休宗純は活躍しました。

一休宗純は、私達の知る一休さん同様に頭がよく、その頭の良さは詩才につながり、とくに漢詩が得意だったみたいですよ。

13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は世間から絶賛されました。

このように頭のいい僧だった一休宗純ですが、人生が21歳の時に激変してしまいます。

一休宗純が21歳の時、当時の師匠だった謙翁宗為がこの世を去ります。

これにショックを受けた一休宗純は、なんと自らも命を断とうとするのです。

ここから、さらに一休宗純は徐々に破天荒な面が見えてくるようになります。

ただし一休宗純は、一応は僧らしい仕事もちゃんとしています。

座禅中にカラスが鳴いているのを聞いて悟りを開いた一休宗純に対し、師匠の華叟は印可状(師のお墨付きのような物)を授け、後継者として認められたり…。

尊敬していた高僧・大応国師の建てた妙勝寺を20年かけて再建したり…。

さらに応仁の乱の後、大徳寺復興のために、後土御門天皇からの勅命で大徳寺の住職にされたこともありました。

一休宗純は、優れた僧であると同時に、出自が

後小松天皇の落胤である

という説が有力視されています。

権力、実力ともにある僧だったため、市民からのみならず、天皇などの皇族とも親しかったそうですよ。

ちなみに、カラスの鳴き声で開いた悟りというのが、すごく簡単に砕いた説明をすれば、

暗闇にカラスがいても見えないが、鳴き声で存在がわかる。

仏も同じように自分の心の中に存在している。

つまり、自分の心のままに生きること、それが仏性(仏の本性)だ。

となります。

つまり、

自分の中の信念を貫き通すべきだ

という悟りに至ったわけですね。

これが、後述する破戒僧エピソードにつながるのでしょう。

さて、これだけを聞くと、実際の一休宗純という人物は、とんちが得意だったどころか、それを披露することもほとんどない、普通の僧のように思います。

とくに後世の説話の主人公にされるような人物ではないように思いますが…。

ではなぜ、一休宗純が後世の創作物で扱われたのか?

その理由は…。

一休宗純は、かなり強烈な変人だった

という、とても僧とは思えない破戒僧ぶりを見せつける、ヤバい性格の人物だったからです。

一休宗純の性格がヤバい?破戒僧エピソードを紹介!

一休宗純という人物は、前述の経歴や、『一休さん』のイメージだけだと、

頭のいい僧

な気がするのですが、実はこれだけではありません。

この一休宗純という人物は、

「戒律なんてクソくらえ!」

というアウトロー精神で、

戒律をことごとく破りまくり、肉を食べ酒を飲み女に溺れた

という、とんでもない破戒僧だったのです。

その生き様は、自著『狂雲集』にも書かれているのですが、あまりの破戒僧っぷりに、後年の臨済宗の僧は、

尊敬する高僧である一休宗純の著書なのに、名前を出してはいけないほどの書物になっていた

ほど…。

それもそのはずで、『狂雲集』には一休宗純が晩年に愛した盲目の女性・森侍者(年齢差は40歳くらいあった!)を愛し、彼女との生活の生々しい部分まで細かく記してあったからです。

今だと未成年は閲覧禁止になるような、そのくらい生々しく、森侍者との生活が描かれています。

このような生き様だったので、当然他の僧からは

「破戒僧」

と呼ばれ、忌避されたわけです。

しかし逆に庶民からは

「生き仏」

と言われるほど慕われていて、多くの人から愛される人物でした。

それにしても、『一休さん』のイメージが大きく崩れてしまうような元ネタ・一休宗純とは、どれほどヤバい性格だったのでしょうか?

その破天荒な破戒僧ぶりがよくわかるエピソードを、いくつか紹介していきましょう。

一休宗純エピソード1 戒律はことごとく破る

何度も言っているように、一休宗純という人物は、戒律を破りに破りまくりました。

女犯(仏教関係者が禁止されている女性との性的関係を持つこと)はもちろんのこと、酒は飲み、肉は食べ、しまいには男色家でもありました。

また、師匠の華叟から印可状(師のお墨付きのような物)を授けた…。

と先述しましたが、実はこの印可状、

一休宗純は授からずに辞退したのです。

それどころか、その十数年後に華叟の弟子が一休宗純の元へ持ってきた際に、

燃やして捨ててしまった

という、もうめちゃくちゃな行動に出ています。

さらに、破戒僧ぶりを示すエピソードが、20歳以上年下の親友であった本願寺蓮如との関係です。

浄土真宗であり、他宗派の本願寺蓮如と仲の良かった一休宗純。

浄土真宗は、他宗派に対して寛容だったため、臨済宗の一休宗純との関係も良かったのだと思われます。

一休宗純は、ある日、蓮如の留守中に家に上がり込むと、あろうことか

蓮如の念持仏である阿弥陀如来像を枕にして昼寝をし始めました

いくら他宗派とはいえ、仏様の像を枕にして昼寝をするとはとんでもない人物ですよね。

しかも、蓮如が帰ってきたときに、これを目撃してしまいます。

さすがに蓮如も激怒するかと思いきや…。

「俺の商売道具に何をする」

と言って、2人で大笑いしたのだとか。

一休宗純も、かなり罰当たりなことをしている変人ですが、蓮如も蓮如でかなりの変人ですね。(笑

一休宗純エピソード2 仏教界や政治への反骨精神

一休宗純という人物は、その行動から、権力や当時の仏教に対して批判的だったことが伺えます。

まず、一休宗純は、高僧でありながら、

ぼろ衣のような黒色の格好をして街中を歩いていた

という、通常であれば煌びやかな正装をする高僧からはかけ離れた、なんとも奇抜な格好をしていました。

また、そんなボロボロの格好をしている一休宗純は、朱鞘の大太刀を腰に差していました。

なぜそのような格好をしているのか、不思議に思った市民が聞くと、一休宗純は刀を抜きます。

すると、そこから出てきたのは木剣でした。

一休宗純によれば、このような格好をした理由として、

最近の僧はこの刀のようなものだ。

外見は派手な袈裟で立派に見えるが、中身は全く役に立たない。

と、当時の僧たちを皮肉りたかったからだというのです。

また、先ほど紹介した印可状を燃やしたというエピソードも、

高僧は印可状を乱発し、金さえ積めば高僧と呼ばれるという腐敗した仏教界を批判する

という意味で、仏教界への批判が込められていました。

見た目がボロボロの服装をしていながら、このような奇行をはたらき、さらには酒に女に肉に手を出す…。

そんな破戒僧がいたら、庶民はどう思うでしょうか?

戦乱や犯罪が起こり続けている世の中なのに、臨済宗の高僧は五山文化に傾倒し、弱きものに救いを見せてはくれません。

そんな中、あまりの人間臭さを感じる生き方をする僧・一休宗純に、庶民からは一休宗純の考え方に共感する者がたくさん現れていきます。

こうして、一休宗純は、権力から離れて生きるアウトローな破戒僧として、庶民からの人気者となりました。

そして、彼が長年庶民として生きてきたからこそ、後の大徳寺再建に大きく貢献することができたのです。

一休宗純エピソード3 大徳寺再建

大徳寺再建は、一休宗純がどれほど庶民から慕われていた人物だったかをうかがえるエピソードとなっています。

権力から離れて生活していた一休宗純でしたが、80歳の時に、後土御門天皇から大徳寺の住職に任命されてしまいます。

この時、大徳寺は応仁の乱の影響で焼け果ててしまいました。

権力を遠ざけて生きてきた一休宗純にとって、なかなか悩ましいお願いでしたが、さすがに天皇からの勅命ならば…と、大徳寺再建に取り組むことにしました。

しかし、

「お金がない…」

再建費用を集めるところから、壁にぶち当たります。

そこで、一休宗純は京都や堺に出向きます。

人々でにぎわう京都や、自由に商人たちが出入りする堺では、破戒僧・一休宗純は絶大な人気を誇っていました。

そのため、

「寄進させてくれ!」

と、商人や武士、茶人、庶民といったあらゆる立場の人々が、

「一休さんの頼みなら!」

と、再建費用を寄進したのです。

幕府から身を遠ざけ、独自の道を歩んだ大徳寺。

そして一休宗純の長年の破戒僧生活が功を奏し、大徳寺は無事に再建されたのでした。

この大徳寺再建の2年後の1481年に、一休宗純はマラリアで亡くなります。

この時、一休宗純は87歳でした。

ちなみに、臨終の際の言葉は、

「しにとうない」

だったらしく、あの世へ行くために修行などをするはずの僧としては、真逆の立場にある言葉ですよね。

しかしそれもまた、一休宗純らしさを感じる1つのエピソードだと言えるでしょう。

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まとめ

『一休さん』のモデルとなった一休宗純は、僧なのに肉や酒、そして女にまで手を出すという、僧としてはかなりヤバい人物でした。

性格も、権力に対して批判的な考えを持ち、お釈迦様に対しても、

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」

(お釈迦様が生まれて仏法を説かれたが、そのせいで多くの人々が騒ぎ迷っている)

という言葉を残し、僧らしからぬかなりの皮肉屋だったことが伺えます。

しかし、エリート街道を歩んだ高僧が権力から身を遠ざけ、庶民的な生き方をしたことで、庶民から絶大な人気を得ていたという一休宗純。

荒れ果てた世の中で、庶民に寄り添って生活していた一休宗純は、当時の人々から本物の仏様に思われていたのかもしれないですね!

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